青春の無意味さ

青春って基本的に無駄でどうでもよくて、しょうもない時間だと思う。

それなのに、後から振り返ってあれはあれで意味があったんだ、とか思い出す。意味があったんだと言い聞かせようとする。

だけど、そんなの嫌なんだよ。意味なかったじゃないですか、現に。そのままでいいじゃない。無意味で楽しかったじゃないか。それでいいじゃない。

無意味だったからこそ、何にも縛られず好きに出来たんじゃないのか。

なぜ意味を持たせようとするんだ!!!

ある種の○○とか、ある意味で○○とか

誰かの意見や行為など、とにかく他者を評価する際に、これはある種の不正であるとか、これはある意味で理にかなっているなどと言う時には、その"ある種"や"ある意味"を特定しなければならない。

仮にある種の不正が単に不正という場合には、当然だが不正と素直に言えばいい。しかし、そうではないから、"ある種"という枕詞を付けている。ならば、それを明らかにすることこそが成すべきことである。

つまり、ある種をある種のままにしておくことは、ある種の欺瞞である。

偉いのはどっちだ

信用してね、なんて言うことを言う人がいるね。我が身をふりかえってみても、事実言ったことがある。多分、今後も言い続けると思う。

信用してね、という言葉は相手のことを心配しているから言ってるように見えるけど、実際違うような気がする。

なんだか、自分は貴方よりも余裕があって、助けてあげられるよという感じがする。ある種の優越感とか万能感に支えられて発話しているように思う。

だけど、人間同士の信用あるいは信頼の問題において最も強いのは、信用する側じゃないだろうか。だって、他人を信用するかどうかの判断は、文字通り信用する側が決めるのだから。つまり、信用する側がハートのAなんだよ!

ならば、信用してね、という側は常に信用の篩にかけられていることになる。ということは、信用されたい側の方が信用する側よりも弱いじゃないか。

それなのに、なんでいつも信用してねと言う側がちょっと偉そうなんだ!!!少しは謙虚になれ!!!

気負わないぞ

何事にも肩の力を入れて望んでしまう。そして、ただでさえ最初から力が入っているのに、どんどん力を入れてしまう。多分、回を重ねる度に成長していなければいけない、という思い込みを信じている。

でも、いいじゃないですか、ダメで、と声をかけて生きたい。それが出来れば、少しは他人にも優しくできる気がするよ。

片付けるって一番面倒くさい

子どもの頃からおもちゃをおもちゃ箱に片付けるのが苦手だった。得意な子どもがいるかはともかく、とにかく苦手だった。いつも散らかしては叱られていた。

三つ子の魂百までとは良く言ったもんで、今でも片付けが苦手。とにかく後回しにしてしまう。スーパーから帰ってきて肉やら野菜やらを冷蔵庫にしまって、それらを入れていた袋を片付けない。

こんなものは直ぐにでも丸めて片付けられると思うことが片付けを後回しにしてしまう原因である。いつになったら片付けを優先できるようになるんだろう。

自慢じゃないけど、もうおもちゃ箱は片付けられるようになった。